理事長紹介【 川村 敬一 】
【経歴】
東京芸術大学声楽科入学。同大学院を修了。
学部卒業の翌年『こうもり』Alfredでオペラデビュー。以来今日まで50本を越すオペラに主演。
代表的なオペラに「トロヴァトーレ」、「フィデリオ」、「ボエーム」、「椿姫」、「カルメン」、「修善寺物語」などがある。
【紹介】
第二次世界大戦も終わらんとしていた昭和20年6月、両親の疎開先岩手県盛岡で、四男三女の第七子として生まれる。
東京都立千歳高等学校(旧・府立12中)卒業後、東京学芸大学に進学。二年後にこれを中退して東京藝術大学に入学。さらに同大学院ソロ科に進学。昭和50年、将来の国立歌劇場建設へ向けて、ソフトを充実させるべく「文化庁国立歌劇場オペラ歌手研修所」が設立されると、これに応募し、第一期生として二年間研鑽を積み、昭和53年度文化庁在外派遣芸術家研修員として、イタリアに留学。
声楽家としての研鑽を始めるにあたって、大きな影響を与えてくれたのは、まず高田信男氏(日本オペラ界初のスピントテノール)であり、類まれなと人の言う、叙情的な歌唱力は、東京芸大時代の二人の師、渡辺高之助氏と中山悌一氏の影響によるものである。そして、発声法に大きく影響を与えたのは、A.バランドーニ(当時神戸在住)とM.ファンチェッリ(ローマ)である。又誰もを引き込む話術は、キリスト教牧師であった、父親の血を受けたものである。
高校二年時に、芸大に進学すべく、とりあえずピアノと声楽を始めるものの、何とわずか二ヶ月で「才能がないので諦めなさい」と放り出されてしまい、次に拾ってくれた女性の先生からも、信じられないことに、又もや二ヶ月で、「本質的に声楽家を目指すのは無理!」と烙印を押されてしまう。こうして後半は何の希望もない、真っ暗な高校生活を余儀なくされてしまった。芸大進学準備がままならないまま、高校卒業が近づき、急遽東京学芸大学受験を決意し、乙類(現B類)を第一志望として挑戦するが、音楽実技は3科目(ピアノ・声楽・楽典)とも一番を取るものの、学力不足のために、甲類(現A類)に落とされてしまう。
学芸大学一年終了時に、先輩の紹介で、前述の高田信男氏の門をたたき、レッスンに通い始める。しかし、おりしも全国的に勃発した、学生運動に巻き込まれ、レッスンも中断を余儀なくされてしまう。学生運動の嵐がほぼ収束を見せた6月、再び高田信男氏の下で、本格的に発声の基礎訓練を受け始める。やがて、11月、当時東京芸大の助教授だった渡辺高之助氏の門をたたき、いよいよ芸大受験準備にかかる。「他大学再受験不可」という学則を遵守し、芸大受験直前の二月をもって、学芸大学を中退してしまう。そして全く運良く(?)一回の受験で芸大に合格し、念願の《芸大生》として、高校時代からの暗かった青春に、ようやく別れを告げることが出来た。
大学院修了一年前に、中山悌一氏の門をたたき、新たな一ページを開き始める。やがて中山先生の勧めで、神戸在住のイタリア人A.バランドーに氏の門をたたき、発声訓練のやり直しが始まる。約三年間、東京府中から神戸へ、毎月数回通う生活を続ける。30歳のときに、将来の国立歌劇場建設に備えて、ソフトを充実させようと言う目的で設立された、《文化庁第二国立劇場オペラ歌手研修所》発足。「研修生募集」の知らせに応募し合格。9人の仲間と更に二年間の研鑽を積む。研修所修了後、文化庁芸術家在外派遣研修員を猛烈な競争をしのいで拝命し、イタリアへ晴れて念願の留学を果たす。イタリア滞在中は、365日間に247回という、猛烈な回数のレッスンを受け、精魂つき果てるまで研鑽に励んだ。
そして帰国後開いたリサイタルで、一年間の研鑽内容が高く評価された。帰国の翌年「長門美保歌劇団」に「カヴァレリア・ルスティカーナ」のトゥリッドゥに出演、東京新聞、音楽の友誌上で「今回の公演は成功であった。成功を導き出したのは川村の歌唱・演技にある」と絶賛された。学部卒業の年、まだ研究生としての授業も始まってなかった時期に、二期会からオーディションに来るよう通達があり、並み居る先輩方を押しのけて合格。こうして思いがけず、J.Straussの「こうもり」のアルフレードで念願のオペラデビューを果たすことが出来た。続いて、二期会としては初の「魔笛」にモノスタトスに抜擢される。このときのモノスタトスは、大好評を博し、中山悌一氏から、「充分世界で通用する」と太鼓判を押され、又栗林義信氏からも、「強烈な個性で、もうあいた口が塞がらない」とまで高く評価された。
留学から帰国後は、二期会ではやはり「カヴァレリア・ルスティカーナ」のトゥリッドゥを演じ、同じく新聞紙上で高い評価を受けた。しばらく「長門美保歌劇団」での出演が続いたが、さかのぼって、「東京オペラプロデュース」設立のころから、室内オペラに多く出演の機会を与えられ、多くの経験を積むことが許されて来た。これらの経験により、これまで経験したオペラは、延べ50本を有に越している。
こうしてOpera歌手として、忙しく活動する傍ら、29歳で初のリサイタル(旧・第一生命ホール)、続いて31歳で二回目のリサイタルを開く。この二回目のリサイタルでは、実兄川村江一の力を得て、委嘱作品を発表した。
すなわち、そのころ「国際アンデルセン賞」を獲得して、世界的にも有名を馳せていた作家、松谷みよこ氏の代表作「お月さんももいろ」をドラマティックな構成の音楽作品として、当時赤坂見附にあった都市センターホールを満員にして、発表したのである。これは現在もCDとして残されている。若い時期に、モノスタトスや「カルメン」の山賊レメンダードのようなキャラクター役をいくつかこなした事が、表現力を高めるのに、大いに役立ったと思われる。ざっとこのような修行時代をすごして、1989年に行ったリサイタルで、エレクトーンを使用した事がきっかけになり、渋谷の公演通りに面した小さなスタジオで「公演通りの一夜」と題するコンサートを始めた。このコンサートは、現在もなお続いており、その回数は300回近くをこなすまでになっている。この回数は少なからず世間を驚かせている。
1994年「東京シティオペラ協会」を興し、主にエレクトーンを伴奏楽器に使用する事で、経費を切り詰めたOpera公演を始めた。このように、オペラ歌手として活発に活動する傍ら、コンサート歌手としても、芸大大学院在学中に「第九」のソロを初めて歌って以来、50回を超えるソロを務め、又「マタイ受難曲」「メサイア」「カンタータ・プロファーナ」「レクイエム」等のソロも多数歌っている。信州蓼科では、夏の終わりにリゾートホテルでのリサイタルを30数年にわたって続けており、東京でのリサイタルを合わせると、リサイタルの数も50回前後になる。
アマチュアの合唱指導も熱心に続けており、多くの合唱団の指導育成に当たってきたが、東京都合唱連盟の理事を12年間にわたって務め、現在も「府中女声合唱団」「混声合唱団 AMC」「コーロ・エレガンテ」「柏プリムラ・エ・コール」の指導を熱心に続けている。「府中アカデミー合唱団」の第一回演奏会では、「メサイア」の指揮をしながらテノール・ソロを歌うという、超人的なことも行っている。
教育者としても、1969年に東京府中市にKEI音楽学院を興し、現在なお300名前後の生徒を擁し、幾多の人材を世に送り出している。著書は、「声楽ライブラリー」(音楽の友社=共著)女声合唱曲集「J・POP」、同「時の流れに身を任せ」「古典イタリア名曲撰集」?T・?U(各高・中・低声用)などがあり、CDは「冬の旅」(日本人テノールとしては唯一)「お月さんももいろ」「川村敬一愛を歌う」「O Sole Mio」がある。